以前にも書きましたが、倉田百三氏の「治らずに治った私の体験」の中に神経症からの超越ついて述べている「治らずに治った」。これは神経症の人が自分の心(意識)を自分の意志で自由に操作できるものと考えていたが、一度、それが不可能のことに気づき、それでもなお自分の意志で心を自由にしようとし、不安を無くそうとしたことから神経症を持つに至ったところを述べている。
これはすべての不安障害(神経症)いわゆる強迫観念に通じて同じような心の葛藤である。倉田氏は彼の理想主義的な意志のカによる生き方によって心を操作し、「とらわれ」に陥ったことを述べている。
昭和初期当時、倉田氏は観照恐怖の後に、目をとじると眼蓋に注意が集中して眠れないという不眠恐怖の状態に陥った。ここでは倉田氏が自らの体験をもって、理想主義的とらわれが次第に変化していく様子がうかがえる。そして神経症性不眠からの解決をくわしくのべている。この意味を、言葉だけでなく体験を参考にして倉田氏の到達した心の変化を考えてみたい。(昭和5年の書なので文字は適宜修正、中略をしています。)
「あまり苦しいので、後には見るものも見まいとして悶えるよりは、眼を開いている方がむしろ楽なくらいでした。同じ眠れない位ならば、眼を開いていた方がまだましだと思われてくる。眼をとじながら、眼の中がみえ、それを見まいと努めることは、それほどにも苦しいものなのです。すなわち私の苦しみは「はからい(浮かんでくる雑念等を考えまいとすること)」の苦しみの象徴といってよいのです。……私は絶望的になりました。京都にいく夜汽車の中で、私は種々と考えました。
連日の不眠の為に脳は睡眠にうえている。眼をひらいていればまだ考えることだけはできる。しかし眼をとじれは、考えることさえもできない。眼の内部に否応なしに注意しなければならないからです。
…このようにして夜汽車の中でも苦しみぬきました。しかしそのような状態で汽車が名古屋を過ぎてから、次に気がついたのは、米原でした。すると、その間だけ、うとうとしたわけです。私は時間表をしらべて、その間が一時間余であることを知りました。
(又、その後の経過で)私の苦しみは極まりました。私は遂に一睡もできないままで、一刻も眼の内部を見ないということのできない窮地に偏ってしまったのです。そしてただそのままでいるより外、右にも左にも動きがとれない。はからうにも、もうはからい方がない。少しも眠らず、じっと眼の内部な凝視しているだけで外にやり方がない。私は絶対境に達したのです。
私は絶望してしまいました。が不思議にもその夜熟睡したのであります。すなわち眼の内部を見たままで熟睡できたわけであります。これは私には思いもよらぬことでありました。しかし事実は事実です。あれほど眠らんとして眠ることのできなかったものが、眠ることができないと絶望し切ったとき、熟睡できたのであります。この不思議な体験は私に確信をあたえました。
……私はその夜以来睡眠については、不思議な心の落ちつきを得ました。そして今日に至
るまで、全く不眠から開放されてしまっています。もちろん眼の内部は、今でも気がつけばいつでも見え出します。しかし見えても眠れるから、それを普段は忘れています。しかしこれは忘れようとして忘れられることではないのです。
これが超越の心理であって、私はこの不眠及びその克服によって、何を学んだでしょう。それは『はからい』というものは、知識でそれが禍の原因であることを熟知していても、また従って意志でそれを廃止しようと努力しても、滅し得ぬものである。(参考文献 倉田百三 絶対生活)
この記述は、神経症の限界状況に陥った時の心の転回を倉田氏なりの言葉をもって記述しています。考えるに、倉田氏の不安症状は、今までの理想主義的な、「・・であるべき、こうでなければならない」といった考え方からの転換をせざる得なくなった。
神経症の不安の正体は、不安をなくそうとしたところから始まる。また皮肉にも、それでもなお、不安を無くそうとすると不安はジャッキされる。ここから始まって、不安へのとらわれが完成されていく。したがって、「不安や苦しはあるが、それがありながら差しさわりもなく日常生活が出来る。」といった事実は言葉や理論、知識などで得られるものではなく、身をもって体験的理解することにより他ないのである。
又、恩師鈴木知準博士はこの倉田氏の体験を次のように述べている。
「神経質の不安症状との悪戦苦闘の末、たどり着くところを述べているこの悪戦苦闘の故に人間が修練されていくのである。強迫観念の悪戦苦闘は明らかに人間の精神生活、また日常生活に大きな影響をあたえるものである。心の超越はこの「耐える所」を通って、耐える必要がない所に到着するのが心的状態であると考えられる。この倉田の言葉は全く達人に近いものである。以前私は「治らずに治った」を心的回転の立場から中途半端なものと理解したが、これは倉田の心的態度の分析研究の足らなかったものと考えざるを得ないようである。」
最後に、現在不安症状に悪戦苦闘されている神経症の人たちへも述べておられる、
「神経質の人がビクビクしたり、劣等感を持ったりしますが、これはその人の一番良いところなのです。そういう取越し苦労をしたりすることを「雲は雲だが、しかし光に満ちている」。私は神経質の人が明らかにそこへ到達すると考えています。また、「雲や霧に閉じ込められているのだけれど、暗くはない」。 ああでもない、こうでもないと、われわれは生きている。しかし、「光に満ちている」。だから、神経質を背負っているのではない。神経質は一番いいのだから、取越し苦労をして不安はあるのだけれど、おおらかだと、こういうことです。」
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