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  悪戦苦闘し悩み苦しんだ末、自分を救うのはもう一人の自分。



  不安症状や気分の落ち込みが、容赦なく襲ってくることもあるでしょう。


  しかし、最後の最後、

    「よし、一切これで良い。」

  と、心の決着を着けるのは、やはり自分自身なのです。




  又、私はこのようにも考えます。

  たとえば、われわれの話しを聞いて、心が平穏になるのではなく、

    「私はそうは思わない、ここは私と違う。」

  と、気付く心こそ大切。


  もうひとりの自分に出会う。

  異議を唱えた自分に巡り合う。


  この出会いこそ、本物の幸せにつながると考えます。


  


不安障害(不安神経症), パニック障害・各種神経症の症状と心構え, メンタルヘルスONLINE



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by mental-online99 | 2016-09-26 20:23 | 不安障害・パニック障害 | Comments(0)
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  ↑ 黄花コスモスです。既に咲いていたとは、秋ですね。


  さて、今の世の中、ストレスの多くが対人関係。


  ある神経症を抱える人が言います。

    「私はなにをやっても駄目な人間です...人からも裏切られました...」と。


  この先々生きていく中で、心を何度も折っては繋ぎ合わせ、

  乱しては整えて、といった日が何度となくやってくる。


  しかし、ここで自分を偽り、ダメな自分と勝手に決め付けてはいけません。

  なぜなら、不安状態に陥るということは、諦めていない証拠でもあるからです。



  又、「人が自分を裏切った!」と言って、

  あきらめていない自分が自分を裏切り、

  自暴自棄な発言や行動をしてしまう人もいます。

  これは論外。これでは一気に家庭や社会的にも人間関係を破たんを招いてしまう。



  確かにありのままの自分を、人前に出すにはとても難しく勇気も必要です。


  論外は別とし、素直な自分を出して、それで去って行く者は去れで良い。

  過去も一切それでよい。


  他人が引いていくようであれば、他人の問題であって、あなたの問題ではありません。

  それこそ、去る者は去れです。


  これまで闘ってくれた自分を大いに褒めてあげて、

  これからは、私は一切これで良いと自分を受け入れることです。

  これらは決して諦めの道程ではなく、確固たる自己肯定であります。

  

  苦しみを経験してきた人たちは、元来弱くはない。

  転んでは起き、転んではまた起き上がりと、

  何度も這い上がってきたむしろ、勇者なのですから。



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by mental-online99 | 2016-09-25 20:35 | 不安障害・パニック障害 | Comments(0)

神経症からの超越

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  以前にも書きましたが、倉田百三氏の「治らずに治った私の体験」の中に神経症からの超越ついて述べている「治らずに治った」。これは神経症の人が自分の心(意識)を自分の意志で自由に操作できるものと考えていたが、一度、それが不可能のことに気づき、それでもなお自分の意志で心を自由にしようとし、不安を無くそうとしたことから神経症を持つに至ったところを述べている。

  これはすべての不安障害(神経症)いわゆる強迫観念に通じて同じような心の葛藤である。倉田氏は彼の理想主義的な意志のカによる生き方によって心を操作し、「とらわれ」に陥ったことを述べている。

  昭和初期当時、倉田氏は観照恐怖の後に、目をとじると眼蓋に注意が集中して眠れないという不眠恐怖の状態に陥った。ここでは倉田氏が自らの体験をもって、理想主義的とらわれが次第に変化していく様子がうかがえる。そして神経症性不眠からの解決をくわしくのべている。この意味を、言葉だけでなく体験を参考にして倉田氏の到達した心の変化を考えてみたい。(昭和5年の書なので文字は適宜修正、中略をしています。)

  「あまり苦しいので、後には見るものも見まいとして悶えるよりは、眼を開いている方がむしろ楽なくらいでした。同じ眠れない位ならば、眼を開いていた方がまだましだと思われてくる。眼をとじながら、眼の中がみえ、それを見まいと努めることは、それほどにも苦しいものなのです。すなわち私の苦しみは「はからい(浮かんでくる雑念等を考えまいとすること)」の苦しみの象徴といってよいのです。……私は絶望的になりました。京都にいく夜汽車の中で、私は種々と考えました。

   連日の不眠の為に脳は睡眠にうえている。眼をひらいていればまだ考えることだけはできる。しかし眼をとじれは、考えることさえもできない。眼の内部に否応なしに注意しなければならないからです。
   …このようにして夜汽車の中でも苦しみぬきました。しかしそのような状態で汽車が名古屋を過ぎてから、次に気がついたのは、米原でした。すると、その間だけ、うとうとしたわけです。私は時間表をしらべて、その間が一時間余であることを知りました。


   (又、その後の経過で)私の苦しみは極まりました。私は遂に一睡もできないままで、一刻も眼の内部を見ないということのできない窮地に偏ってしまったのです。そしてただそのままでいるより外、右にも左にも動きがとれない。はからうにも、もうはからい方がない。少しも眠らず、じっと眼の内部な凝視しているだけで外にやり方がない。私は絶対境に達したのです。

   私は絶望してしまいました。が不思議にもその夜熟睡したのであります。すなわち眼の内部を見たままで熟睡できたわけであります。これは私には思いもよらぬことでありました。しかし事実は事実です。あれほど眠らんとして眠ることのできなかったものが、眠ることができないと絶望し切ったとき、熟睡できたのであります。この不思議な体験は私に確信をあたえました。

   ……私はその夜以来睡眠については、不思議な心の落ちつきを得ました。そして今日に至
るまで、全く不眠から開放されてしまっています。もちろん眼の内部は、今でも気がつけばいつでも見え出します。しかし見えても眠れるから、それを普段は忘れています。しかしこれは忘れようとして忘れられることではないのです。
   これが超越の心理であって、私はこの不眠及びその克服によって、何を学んだでしょう。それは『はからい』というものは、知識でそれが禍の原因であることを熟知していても、また従って意志でそれを廃止しようと努力しても、滅し得ぬものである。(参考文献 倉田百三 絶対生活)


  この記述は、神経症の限界状況に陥った時の心の転回を倉田氏なりの言葉をもって記述しています。考えるに、倉田氏の不安症状は、今までの理想主義的な、「・・であるべき、こうでなければならない」といった考え方からの転換をせざる得なくなった。
  神経症の不安の正体は、不安をなくそうとしたところから始まる。また皮肉にも、それでもなお、不安を無くそうとすると不安はジャッキされる。ここから始まって、不安へのとらわれが完成されていく。したがって、「不安や苦しはあるが、それがありながら差しさわりもなく日常生活が出来る。」といった事実は言葉や理論、知識などで得られるものではなく、身をもって体験的理解することにより他ないのである。


  又、恩師鈴木知準博士はこの倉田氏の体験を次のように述べている。

   「神経質の不安症状との悪戦苦闘の末、たどり着くところを述べているこの悪戦苦闘の故に人間が修練されていくのである。強迫観念の悪戦苦闘は明らかに人間の精神生活、また日常生活に大きな影響をあたえるものである。心の超越はこの「耐える所」を通って、耐える必要がない所に到着するのが心的状態であると考えられる。この倉田の言葉は全く達人に近いものである。以前私は「治らずに治った」を心的回転の立場から中途半端なものと理解したが、これは倉田の心的態度の分析研究の足らなかったものと考えざるを得ないようである。」


  最後に、現在不安症状に悪戦苦闘されている神経症の人たちへも述べておられる、


   「神経質の人がビクビクしたり、劣等感を持ったりしますが、これはその人の一番良いところなのです。そういう取越し苦労をしたりすることを「雲は雲だが、しかし光に満ちている」。私は神経質の人が明らかにそこへ到達すると考えています。また、「雲や霧に閉じ込められているのだけれど、暗くはない」。 ああでもない、こうでもないと、われわれは生きている。しかし、「光に満ちている」。だから、神経質を背負っているのではない。神経質は一番いいのだから、取越し苦労をして不安はあるのだけれど、おおらかだと、こういうことです。」

  


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by mental-online99 | 2016-09-22 11:00 | 不安障害・パニック障害 | Comments(0)
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↑ たまたま訪ねた場所で。お参りされた人が一つ置いていくそうです。圧倒される数です。



  さて、不安症状に苦しむ人が言います。

    「症状があってまったく心が流れない。頭が回らない。」、と。

  不安障害(神経症)の人が「何も考えることができない...頭が回らない...」、と訴えますが、それらを観察し言葉に出してしまった時、心はますますとらわれて身動きができなくなる。


  症状を安易に言葉にださないこと。これは不安障害、神経症解決のもっとも大切なこと。


  症状(違和感)を口にだすと、どうしても症状観察の深堀りがはじまる。これをした時に、「何も考えることができない..」がより騒がしくなってくる。実際は頭も心も動いているのだけれど、とらわれてそこに集中し観察しているので、本当に動かないと感じてしまう。そして、「動かない、大変だ!」と思ってさらに深堀りをしたときには、完成されたとらわれになってしまう。

  この局面で、われわれが或は家族が客観的、好意的に、どのような言葉を投げかけても入って行かない。症状に苦しむ人はむしろ、「こんなに辛いのに...」と家族に対し反発を招くことさえある。


   「人に負けたくない、評価されたい、成功したい。」


  このように我々の心は良い意味で欲望に満ちている。向上心のある神経質ならなおさらである。だからこそ不安を持ちやすい。つまり不安があらわれて自然なのでありますが、鋭敏な心をもって違和感を観察し、それを言葉に出した瞬間から「不安症状」と名の付いた囚われの身が姿を現すのです。

  

  二十年以上も不安障害に苦しんだ人が以下のように話す。


    「治ったのではないから、再発するはずもない。もともと治すものではなかった。本来の自分を知り、自覚しただけです。」


  これは通院されて間もない人には難しいかもしれませんが、「元々病気ではなかった。だから治った治らないではない。」と解釈できます。


今は、症状があって悪戦苦悩な日々かもしれないが、元来、向上心に満ちた素晴らしい性格なのである。とらわれの殻を破ったとき、不安があっての不安と戦わない心、不安を相手にしない心の態度になっていく。そのためには、症状を持ち合わせたまま行動していくのみ。そこから上述の人のような自覚へとこころが抜けて行くのかもしれません。


  

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by mental-online99 | 2016-09-16 18:22 | 不安障害・パニック障害 | Comments(0)
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  悲しみ、苦しみを経験して、心の傷口があるとするならば、

  これらが縁で、学ぶもの、気付くもの、心をもって見えてくるものがでてくる。

  そして、一滴、一滴 しずくの如く、この傷口から、あらゆる教えが浸み込んでくる。

  

  暗が深ければ、微光も明るく感じる。
 
  悲しみ、苦しみが深ければ、些細なことでも嬉しさが生まれる。


  ときには、自分の症状を探すのはやめて、家族、人へ心を向けてみたい。

 

  
  さて、そんな他人への心遣い。
 

  私の心に残る逸話に、千利休「袖香炉(そでこうろ)」の話しがあります。


  ある年のこと。利休は、雪の暁に屋敷から蓑笠(みのかさ)をつけて、薮内紹智(やぶのうち じょうち)のところを訪れた。露地入りをして蓑笠を脱ごうとしているところに、紹智が迎えに出たので、火を入れた「千鳥」の香炉を、

     「これ、紹智」

 
  と言って右の袖から出して渡すと、紹智はそれを左の手で受け取り、


     「私も懐中しております」


  と、自分の香炉を右手で出して利休に渡した。利休はその心入れを、大いに興趣あることをお感じになられたといいます。(参考文献 / 利休の逸話)


  利休は、寒い夕刻に迎えに来ている紹智に対する思いやりとして、香炉で暖をとるようにと持ってきたのである。紹智は紹智で、寒い中を利休に対する心遣いとして、香炉を袖で温めて迎え入れようとしていた。
  
  客も亭主も、お互いを思いやる根本の心。雪が降る夕刻に、言葉少なく自然と交わされた、微笑ましい逸話であります。
 


  

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by mental-online99 | 2016-09-15 21:55 | 不安障害・パニック障害 | Comments(0)
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 ↑  「岩もあり、木の根もあれど、さらさらと、たださらさらと、水の流るる」 
   昭和初期 倉内松堂老師 筆

 岩や木々、いろんな障害物が行く先を遮るけれども、川の水は さらさらと自然に流れていきます。様々な困難が幾度もありますが、水の流れは時に岩をも削る力をも発揮する。あるがままに、流れに抗わず、と解釈できます。




    さて、「枯れ木に影無し。」


  これは晩秋に吹いた風が、最後の葉や実まで吹き飛ばし、大木が裸になった情景。陽があたっても影さえ映らない。葉や実を不安に置き換えてみると、そこにはとらわれさえ残っていない、という意味にもとれます。

  枯れ木といっても、何もかも枯れ果てたという事ではありません。葉も実も何もない、一夜にして余計なものが全て吹き飛んでしまった心の状態とでも云いましょうか。わたくしも心気一転をもって不安障害(神経症)の解決をされた人を何人か見て参りました。まさに心機一転ではなく、心気一転であります。

 
  ここで不安障害の一つ、心臓神経症を例にある医師が云います。

    「神経症の本態は何か、これは不安、心配という精神的現象の肉体的表現が、心臓の動悸の変調であり、この動悸にみずから気付いて、これを生命危機の前兆として独断して慌てて、この変調そのものを恐れ、不安しているための、いわゆる取り乱した状態である。」、と。

不安障害(神経症)の人は完璧主義で、「~でなければならない」とパーフェクトを目指す。多くは、認められたい、家族守りたい、成功したいなどを強烈に持ち合わせているのであるが、『生の欲望<死の恐怖』といった図式になり生の欲望どころではなく、不安症状にとらわれるようになる。不安が肉体的に表現されるとき、動悸、脱力感、歩行困難、めまい感など様々な症状があらわれ、驚き恐怖することによって、さらに大きな不安と恐怖を呼び起こして独り不安と戦うことになる。


  これが我々の云う、「一波を以て一波を消さんと欲す。※」になります。
  ※一つの波(不安症状)をもって、一つの波を消そうとすれば、かえって多くのさざ波が生じてくる。このように、症状を消そうと努力すれば、次から次へと新たな症状が生じてきて収拾がつかなくなる。


  昭和初期、今は亡き恩師が云います。


    「神経症者がどんずまりに落ちて、何ものをも期待されなく、ただ生きていく、自然の流れに身を投じた生き方、どこに流れていくか、それすらわからぬところをぬけて、なにものか大自然に身をゆだねた態度に変化していく。 <中略> 常に取越し苦労し、将来を心配しながら、現在の一刻をつとめていくこと、それだけでよい。この点において、苦楽を超越しているのだ。」





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by mental-online99 | 2016-09-04 20:43 | 不安障害・パニック障害 | Comments(0)

メンタルヘルスONLINE スタッフの徒然日記。神経症 不安障害・鬱(抑うつ)などを語ります。


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