神経症 − あらぬ病気を作るより、不安を受容するこころ

私たちは神経症の人たちに「不安があって良い」と云うのですが、神経症の人たちは、「不安があっては困る」と云う。この間におおきな溝が横たわっているのです。しかし、この溝を私たちの言葉で埋めていくことは困難である。この不安があって良いと云う心の展開に至るには皆が行動によって知り分けていくことなのです。

 よく聞く皆の悩みに、「あれこれごちゃごちゃ考えて迷って考えるからダメなのです」、と云う感情があります。しかし、私たちは迷うからいんじゃないですか、と説く、「迷ったらなぜダメなのでしょう」と聞く。つまり、迷うから周囲の人に対しても失礼のない行動がとれるし、親身な発言もできる。空気を読む鋭敏なこころでもあります。だけども、神経症症状のある人は、それでも困ると云い張る。このごちゃごちゃ考え迷い、煩悶が役立っていると云うことに気付けば、迷うことにこころが反対しなくなってくる。

 この神経質特有のごちゃごちゃと取越し苦労のように考える「癖」。
先述のように、あっては困ると云い、本来役立っていることに気付くこともなく、勝手に「大変な病気」として焦り考える。重篤な病気として考えるから、神経質なひとは心配の妄想が広がる。広がるから、なおさら自分の考え観念がいっそう病的にも思え、早晩不治の精神病にもなるのではないか、、、と煩悶する。ここまでくると煩悶はことさらに辛い。
 
 しかし、考えてもみれば今ここで私が「あって良い」などと、云ってもひどすぎる話かもしれません。
冒頭に申し上げたとおり、「不安や雑念、迷いがあっても良い」と云う心的態度に到達するには、その恐怖に入っていった局面で経験することになる。

 不安や迷い、雑念や恐怖がなくなる、と云う手品のようなものではなく、あっても反対しないこころの態度はゆっくりと形成されてくる。今日は不安が無かったと云って喜んでいるのは、不安があって困ると云うのと同じであって私たちは「不安が無い」、と云う言葉には見向きもしません。

 不安があったり、視線が怖くなったり、心臓が躍ったり、顔が赤くなったり、急に死ぬのではないかと恐怖に襲われたり、雑念が取れなくて怖くなったり、、、。症状こそ違えど、みな「不安」と云う生存欲の現れなのです。つまり、「生きたい、死にたくない、認められたい」と云う願望が普通人よりはるかに強いからこそ出てくる感情なのです。だから、これらは無くしてはならない。今は、辛いかもしれませんが、やがて「不安が役立っている」ことに気付くときが来る。神経質の人はついにはこれらが深く理解するときがきます。
 
 不安や雑念、心配恐怖と云うのは、いくら払っても蹴り飛ばしても出てくる。
仕方がないから放置する。だけどもしつこく湧いてくる。だけども、くどいようだがこの不安や恐怖と云うのは裏をかえせば、「強い願望、生存欲の現れ」。この不安や恐怖がないと、逆に神経質とは真逆の人格になり、気配りどころか空気も読めない。ただ、症状と云い張る皆にいくらこれらを説明しても今はわかりません。伝わらなくて当然です。

 ところが、不安を持ちながら「行動」のみをやっていると、「不安や恐怖があっていい」と云うところに到達するのであります。

 不安を治す、雑念を無くす、恐怖におびえない心を求めるのではなく、それらを受け入れることができる心、相手にしない心をどうやって作っていくのか、と云うことが最も重要であるのです。したがって、薬を用いて不安を封じ込めるとか、無くすとかと云うのは急性期は必要であったとしても、根本的解決には少々的(まと)が異なる。大切なのは、いかに心の態度、受容するこころの態度を発現させるかになると考えます。

 ある人が言います。
「私は今でも不安症状が起きる。それもいろんな形を変えて起こる。しかし、それが起こっても私は知らん顔をしている。知らん顔をしているので、不安の奴も張り合いがないのかして顔をだしてはすぐに引っ込めてしまうのであります。」、と。


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by mental-online99 | 2014-08-15 17:43 | 不安障害・パニック障害 | Comments(0)

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