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苦しみがあって、楽しさの有難味もわかる。

 「気分本位」と云う言葉がありますが、多くの精神疾患の人たちがこの「気分」を優先にものごとを考えてしまう。今日一日の気分がどうあったかではなく、一日をどのように行動し、どのように過ごしたのかが大切。つまり、行動本位に考えていくこと。

 また、良くなったかどうかを気分で判断するのではなく、今の生活態度、行動にこそ目線をおくべきであります。3歩進んで2歩下がっても良い。時には、転んでズルズルと落っこちる日もあるでしょう。多くの人たちは何度も転んでいる、そして何度も起き上がってくる。

 この症状をもったまま、起き上がろう、そして起き上がってくる人たちは本当の意味で強く、まさに「勇者」と云っても過言ではありません。と云うのは、健常者の人があなたの症状を経験すればおそらくは立ってもいれないでしょう。「私は弱い、、」と嘆く人が多いですが、むしろ強いと私は思う。

 症状や辛い過去は忘れなくても良い。症状や過去はどうあれ、「今」と云う一瞬を懸命に生きること。病前にイキイキしていた自分こそもう一度思い出し、その目的や夢へ一目散に駈けていくことです。

 また、症状に期待をすると簡単に裏切られる。これから様々な局面で山あり谷ありの波があると思います。しかし、これらは予め織り込み心得、気分はどうあれ症状があったからと云って悲観することはないようにしたいものです。

 転ぶのは簡単。でも起き上がろうとする、その精神力のある「あなた」こそ忘れないで戴きたい。
冒頭、「苦しみがあって、楽しさの有難味もわかる。」にあるように、峠を乗り越えた人は、症状がある前の自分以上に「心根」も深く大きくなり、ますます健康になっていくことを私たちは知っているだけに、少々声を大にして述べておきたいと思います。


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by mental-online99 | 2014-08-21 10:27 | 不安障害・パニック障害 | Comments(0)
悩むことが、「あってはならない」と、自責しこころを操作やりくりしていないでしょうか。

 悩み苦悩することは、ことさらに不幸ではなく、生きていく上で自然で人間らしいあるべき時間と私は考えております。自分だけが、自分の家だけが、、と悩み苦しむことは大変つらいことですが、その自然な流れに抗うよりも、むしろ「あるがまま」に事実を受け入れることが大切。

 私の座右の銘に、「自然に服従し、境遇に従順なれ」、があります。
昭和2年当時だと思いますが、慈恵医大初代精神科名誉教授、森田正馬博士の言葉です。
気分はあるがままに認め、状況にふさわしい行動をとっていくこと、を意味すると私は解釈しています。


 私も昨年、まだ若い家族を亡くしましたが、私自身こころ穏やかに暮らしていくことは難を要しました。しかし、私たちはこの運命や自然、言葉を変えれば無常、をあるがままに認め、まさに今目の前にある一瞬一瞬を丁寧に行動していくほかありません。この一瞬の地道な積み重ねが、先々の自分を作ってくれると考えます。


 昔の言葉ではありますが、「日が照れば下駄屋の息子を思い、雨降れば傘屋に嫁いだ娘を思う」、と云う言葉があるように、状況はなにひとつ変わってはいないのに、人間は常時心配症であり、悩み煩悶するもの。これが良いとか悪いとかではなく、自分にとって幸せとは何か、、このお盆の終わりにじっくり自分と向き合ってみるのもいいかもしれませんね。


 意外に、「幸せ」とは、ありふれた日常に隠れているもの。
無いものに目を向けるのではなく、有るもの(足るを知る)に目を向ける時間も必要なのかもしれません。




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by mental-online99 | 2014-08-16 17:45 | 統合失調症 | Comments(0)
私たちは神経症の人たちに「不安があって良い」と云うのですが、神経症の人たちは、「不安があっては困る」と云う。この間におおきな溝が横たわっているのです。しかし、この溝を私たちの言葉で埋めていくことは困難である。この不安があって良いと云う心の展開に至るには皆が行動によって知り分けていくことなのです。

 よく聞く皆の悩みに、「あれこれごちゃごちゃ考えて迷って考えるからダメなのです」、と云う感情があります。しかし、私たちは迷うからいんじゃないですか、と説く、「迷ったらなぜダメなのでしょう」と聞く。つまり、迷うから周囲の人に対しても失礼のない行動がとれるし、親身な発言もできる。空気を読む鋭敏なこころでもあります。だけども、神経症症状のある人は、それでも困ると云い張る。このごちゃごちゃ考え迷い、煩悶が役立っていると云うことに気付けば、迷うことにこころが反対しなくなってくる。

 この神経質特有のごちゃごちゃと取越し苦労のように考える「癖」。
先述のように、あっては困ると云い、本来役立っていることに気付くこともなく、勝手に「大変な病気」として焦り考える。重篤な病気として考えるから、神経質なひとは心配の妄想が広がる。広がるから、なおさら自分の考え観念がいっそう病的にも思え、早晩不治の精神病にもなるのではないか、、、と煩悶する。ここまでくると煩悶はことさらに辛い。
 
 しかし、考えてもみれば今ここで私が「あって良い」などと、云ってもひどすぎる話かもしれません。
冒頭に申し上げたとおり、「不安や雑念、迷いがあっても良い」と云う心的態度に到達するには、その恐怖に入っていった局面で経験することになる。

 不安や迷い、雑念や恐怖がなくなる、と云う手品のようなものではなく、あっても反対しないこころの態度はゆっくりと形成されてくる。今日は不安が無かったと云って喜んでいるのは、不安があって困ると云うのと同じであって私たちは「不安が無い」、と云う言葉には見向きもしません。

 不安があったり、視線が怖くなったり、心臓が躍ったり、顔が赤くなったり、急に死ぬのではないかと恐怖に襲われたり、雑念が取れなくて怖くなったり、、、。症状こそ違えど、みな「不安」と云う生存欲の現れなのです。つまり、「生きたい、死にたくない、認められたい」と云う願望が普通人よりはるかに強いからこそ出てくる感情なのです。だから、これらは無くしてはならない。今は、辛いかもしれませんが、やがて「不安が役立っている」ことに気付くときが来る。神経質の人はついにはこれらが深く理解するときがきます。
 
 不安や雑念、心配恐怖と云うのは、いくら払っても蹴り飛ばしても出てくる。
仕方がないから放置する。だけどもしつこく湧いてくる。だけども、くどいようだがこの不安や恐怖と云うのは裏をかえせば、「強い願望、生存欲の現れ」。この不安や恐怖がないと、逆に神経質とは真逆の人格になり、気配りどころか空気も読めない。ただ、症状と云い張る皆にいくらこれらを説明しても今はわかりません。伝わらなくて当然です。

 ところが、不安を持ちながら「行動」のみをやっていると、「不安や恐怖があっていい」と云うところに到達するのであります。

 不安を治す、雑念を無くす、恐怖におびえない心を求めるのではなく、それらを受け入れることができる心、相手にしない心をどうやって作っていくのか、と云うことが最も重要であるのです。したがって、薬を用いて不安を封じ込めるとか、無くすとかと云うのは急性期は必要であったとしても、根本的解決には少々的(まと)が異なる。大切なのは、いかに心の態度、受容するこころの態度を発現させるかになると考えます。

 ある人が言います。
「私は今でも不安症状が起きる。それもいろんな形を変えて起こる。しかし、それが起こっても私は知らん顔をしている。知らん顔をしているので、不安の奴も張り合いがないのかして顔をだしてはすぐに引っ込めてしまうのであります。」、と。


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by mental-online99 | 2014-08-15 17:43 | 不安障害・パニック障害 | Comments(0)
神経症において、心の転機をするときと云うのは、症状を起こしてきた自宅では難しいかもしれない。
不安神経症やパニック障がいであれば、まさに恐怖の中、外出先において「もうどうにでもなれ」と云った局面で心気一転するケースは多い。

 いわゆる退路を断った状態の時。
自らがあれだけ予期して不安に思っていた事柄が、意外と簡単にできた、と云うところを通った時にも同様に心気一転する場合も多い。たとえば、新幹線にどうしても乗らないといけない場合、不安発作を起こしはしないかと夜も眠れず迎えたその日、新幹線ホームでは「行こか戻ろか」の葛藤の中、いざ「えいっ」と乗ってしまえば意外と思ったほどではなかった、不安とはこんなものか・・と一転する人もいます。

 例えて云うなら、初めて泳ぐのに、泳ぐ前から自宅で泳ぎ方を考えても意味がありません。
気分は気分として、行動の中へ入っていくことが大切です。私たちの気分と云うのはまるで「あて」にはなりません。今気分が晴れたかと思えば、数分後には雨が降ってきた、と云うように。
ここで神経症の人は誤る。

 つまり、晴れた気分の状態(時)を、これが自分のココロの標準としてしまう。だから、いつも「あの時の気分でないといけない・・・」と、焦り、混乱してしまう。しかし、そんな晴れた気分は私でも「まれ」ですから、そう何度もやってはきません。従って、自らが、あの晴れた気分になるように心を修正しようとやり繰りしてしまう。

 当然、こころのやり繰りをしても無理ですから、ますます「とらわれ」の悪循環に陥ってしまうことになる。

 大切なことは、神経質の人たちは、仕事も家庭でも常に「爽快」でなければならないと、考えている「癖」があること。一点の曇りでもあれば納得がいかない。これが完全主義の神経質の特徴です。爽快でないから不安が顔をだす。すると、自分で「しっかりしろ!しっかり!」と叱咤し、不安と戦ってしまう。

 冷静に考えれば、人間だれしも悩みや症状、苦悩を持ち合わせながらも、仕事をしています。もちろん、他人に悟られないように作り笑顔を見せたり、残業もしながらです。それが大人としての思いやり、行動でもあります。しかし、一部の神経症のひとたちは、仕事をはじめるときも、家庭で外出するときも、いまひとつ気分が冴えないことに嫌気を差し不安を覚え、その嫌な気分から逃れるたいとして心を操作してしまう。そして、出来ないから焦り不安する。すると今度は不安がめまい感や嘔吐感などの身体症状として現れてますます恐怖する。

 周囲の人たちは、何の悩みもなく楽しく仕事もしているし、家族と外出している、と思っているのはまさに「隣の芝生は青く見える」であり、大きな誤りでもある。

 皆は、不安や不快、辛い気分や症状を持ち合わせながらも、限られた人生を大切に有意義に過ごそうと努力し、行動している。周囲の状況を見渡して、自身の立場を振り返り、気分は気分として、その状況に応じた行動をとるようこころが動き始めれば、見えてくる景色も違ってくるでしょう。

 
 
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by mental-online99 | 2014-08-13 18:38 | 不安障害・パニック障害 | Comments(0)
書籍を整理していたら、恩師 鈴木知準博士の貴重な資料がでてきたので記述しておきたいと思います。森田理論を深く理解されている方にも、ぜひ当時を振り返りお読みいただければ幸いです。
※表現や活字が当時のものでありご容赦ください。

= 神経質を越えた心を語る (森田先生生誕百年記念講演)=
      
 (昭和四十九年六月二日、森田先生生誕百年記念公開講演会が、慈恵大学中央講堂に開催され、高良、古閑、両先生、山野井一望郎氏と鈴木の四人が指名された。その折の鈴木知準博士の講演全文である。この日の中央講堂は超満員であり、千名をはるかに越える聴衆であった)


 神経質を越えた経験者としての立場からの話を二十分間位するようにとの新福教授からの御指示ですので、今から申し上げることは精神医学の学会におけるものとは異なって、精神医学的に、心理学的立場からの理論ではなく、私自身の経験した心理的態度から、一体、神経質の不安症状を越えるとはどういうことであったかを、自分の経験を追想しながら、系統的でなく、通俗的に一つの雑談としてお話をすすめたいと思います。
 この意味で、精神医学の森田理論のみに興味をもっておられる若い医学者の方々にはあまり参考にならないかもしれませんが、今日はこれらの方々も、自分の人生における不安、苦悩の経験を思い出しながら聞いていただけたら有り難いことと思います。精神医学的の討論は別の機会にしたいものと存じます。また神経質の不安と戦って、森田先生の著書を読まれ、また専門の先生方から指導された多数の方々も、御自身の神経質を回想されながら、さらに自分の心の態度を深められたらと僣超極まることも考えながら、お話をすすめたいと思う次第でございます。

 - 「神経質は人生の公案」 -
 ここで述べますことは、神経質という心理的状態を生存欲の強い型の神経症と考え、それも特にその型の純粋の人達を考えますと、この心の葛藤状態は、いろいろの条件から一つの「人生の公案」をとかざるを得ないことになって、悪戦苦闘していることに近いものと考えるのでございます。フロイトは、このような不安症状を病態と考えたことは御承知の通りでございます。森田先生は、大正末期並びに昭和二、三年頃の著書を読みますと、健康な心理と間一髪の相違と書いております。

 昭和七、八年以後の晩年にもやはり、「健康な心理と認めたいと考えた」という程度が適当ではないかと考えます。というのは、精神葛藤から「とらわれ」を起こし、心の流れの停滞を起こしている状態で、本当の健康とは少しくずれているからでございます。さて、この精神葛藤は内向的で、意識性、完全欲、生存欲の強度の人間性からの当然の帰結であります。と申しますのは、完全欲生存欲の強い人間性のために、この人生においては当然不安を持つ、この不安をみずからの性格傾向から自分の心から追い出そうとし、とりのぞこうと否定したことから持つに至った心理的状態像であるからでございます。

 この性格的傾向は遠く遺伝的に祖先につながるものと、生まれてから15年、20年 30年の生活体験に起因しているものであり、そのようないろいろの条件がからみ合って、この人生においてたとえれば赤い花が咲いたということであります。ところが神経質の人達は小心でない、のんびりした、悪い言葉を用いますとずぼらな白い花になりたいと考えているものでございます。しかし白い花には遂になり得ない。しかして、赤い花になったということは、一定の心理的態度に到達れば実は一番良かったということであります。しかし神経質の人はこの赤い花になったことは一番わるかったと考えておるのでございます。この二つのうけとり方には心理的態度として、その間に深い溝がある。この溝をどうして飛びこえさせて、この不安症状の中に安定の心理的態度をとらせようかというのが森田療法であると考えるのでございます。 

 - 「あるがまま」の言葉で理解でなく現在になりきること -
 さて話をわかり易くするために結論を先に述べることにしますと、御存知のように森田療法はむしろ言葉を通ずるというよりも、行動即ち臥裾とか作業とか、時には症状を無視した態度をとる不問の手法を通じて、今、即ち現在になりきらせて、不安を肯定する心理的態度を体得せしめ、自由に流動する心を展開せしめ、主体性のある人問に成長せしめようと指向するものでございます。

 この「今」になりきった心理的態度が「そのまま」なのでございます。ここで何としましても申し上げなくてはならぬことは「そのまま」という言葉を心理学的に精神医学的に哲学的に理解することと今になりきった心理的態度になることとは全く別のことであるということでございます。「そのまま」 「あるがまま」ということを如何に自分にいいきかせても今になり切った心理的態度は発現しません。ここの所が森田理論のみを理解して、神経質の不安を治そうとする神経質の人達やあるいは森田療法の治療者を志す若い医師の方々のまちがえ易いところであります。

 - 森田も禅も人生の不安をとろうとしない -
 さて、フロイトの精神分析療法においても、あるいはウォルビ教授の行動療法においても、この「不安症状」を心からとりのぞくことを問題にしているようでございます。ところが森田の療法において、不安症状を越えた心の態度というものは、その人にとってその不安は本来当然あるもの、さらに進んで必要なものとうけとるように心は展開していくものでございます。このことは「からだ」で言葉をかえると体験的にぴたりと分かってきますことで、このことを理論的結論として考えてもその人に心の安定はありません。

 また自己の確立もありません。しかしこの精神葛藤を経験しない人々は理論の結論で心の安定を得ると考え勝ちでございますが、それでは如何に努力しても精神安定は得られないものであり、みずからの人生の目的にも情熱をもって前進する態度も展開しないものであります。
 この不安を肯定する態度を身で知る、即ち体験的に把握することが、どうして、神経質の人達の心の中に発呈るものであるかということについて、今から例をあげながら考えてみたいと思います。

 ここにおいて私自身が森田先生の所に入院した経験を述べながらお話を進めたいと存じます。
 
 - 心理的急転回の実例 -
 私は十五歳頃から三、四年にわたる不眠恐怖と胃不快感、神経性便泌、頭内朦朧感、勉強不能、吃音恐怖、遺精恐怖で三年間旧制中学の大部分を欠席していたものであります。先生の著書を読んだことから、先生の所に昭和二年三月ころがりこんでいったというのが本当でありました。ところが森田先生の診断で意志薄弱者とされて、入院をことわられ、お願い申して入院させてもらったものでございます。

 そして、まる七日間の絶対臥裾(がじょく)をうけました。しかもその絶対臥裾は全くの絶対臥裾、一回の医師の面接もなく、ただ一人薄暗い一室に放置されたものであります。この入院をことわられ一室に放置された状態から私は、臥裾はじめの頃もそれほど苦しいとも感ぜず、五、六日の後には天井板の木目からの連想や、戸外の江戸の名ごりの物売りの声芸に楽しみを感じるように急速な心の変化を来たし、あれほど不安に感じ執着していた不眠や胃の不快感、頭内朦朧感をそれほど不安と感じない心理的態度に急転回していき、不安の肉体的あらわれである便秘も急速に快方にむかう結果となりました。

 私はこの自分みずからの心の態度の急速な変化を繰り返し体験し、この症状を問題としない心の態度への急転回を考えるのでございます。この心理的転回は、過去三年の悪戦苦闘と、森田先生に入院をことわられたことにより、限界状況にまで追いおとされ、さらに一人ぼっちの絶対臥裾によって自己肯定の方向におしやられ、不安を相手としない心理的平面に急転回していったことと考えられるのでございます。それ以来、四十七年間私は益々健康に再び不眠や、胃の不快感、吃音恐怖の「とらわれ」におちいったこともなく、現在のように元気で自分の目的とするところに一条に走り続けているのでございます。私は親鸞の「廻心(えしん)ということただひとたびあるべし」という言葉をつくづく思うのでございます。
 
 このような心理的体験は、森田先生の発表されている日誌の中にも多数あり、またわれわれの経験した治療例の中にも数多くございます。

 そのうち今日は森田先生の記録の中の柿原さんのことを申し上げましょう。今も御存命と存じます。この方のことは神経質第三巻第八号(昭和七年)に「めまい、頭痛に悩み自殺を企てたこともある」例として記載されているものでございます。当時35歳でございました。

 第二子出産後発病した4年来の症状であり、生来過敏な性格であったといいますが、8年前教育家の家から境遇の異なる商家に嫁してから、めまい、頭痛、嘔吐等の症状にあけくれるような、とらわれの状態におちいった。それは全人格をゆさぶる不安、焦燥でありました。この人の臥裾五日目のことを起床後書いた日誌の中に次のようなことがございます。

 「昨日からの嘔気がのこっていて朝食をやめた。この日こそ苦しい日であった。過去のことがこびりついて、どうしてもはなれない。何もかもがいやでいやでたまらなく、胸がじりじりしてくる。
 物音がうるさくてうるさくて身の置き所もない。丁度入院前の状態にもどった。ここだなと思って、ただじっと眼をつぶって苦しんでいた。『さあ御飯をおあがりなさい』といって御飯を出された瞬間、今までのこだわりがふっ飛んだ。頭も身体もすっとした。御膳に向ってみると、今の今までいただけるかと気にしていた御飯がおいしい。おかわりまでした。あまり変なので頭をふってみた。
 痛いのは相変らず痛い。しかし苦にならない。夜半にふと目をさまして、熟睡していたことに気がついた。ああ私は今まですべてこだわっていた」という日誌がございます。
 この言葉はなかなか興味深いものであります。4年にわたっての頭痛があるけれど、苦にならない態度に急転回していっているのでございます。

 またビルマの戦線で戦死された黒川少将の若い日、二十八歳時、森田先生の所に入院した日誌−
これは、「神経衰弱と強迫観念の根治法」の中に出ている例でありますが、対人恐怖と右半分の頭痛で9年にわたって苦悩し、森田先生の所に入院している。入院第二十二日の日誌に次のようなことがあります。

 「頭がしびれていると終始思いつめている。ときどき忘れてこまる。はっとして思い出すことがしばしばである。私は今では、このことを思っていることについて、何らの反対観念も心のとがめもなくなった。自分では症状を自覚しながら、そう思いたくはなかった。いわんや、終始思いつめているなど、とてもできなかった」という日誌があります。
 
 さらに入院二十九日の日誌には、
 「頭の麻痺感は、そのことを思えば麻痺しているし、思わなければ何ともない。今はそんなことは、私にとって問題ではない。仕事や読書が億劫でないことが最もうれしい」というふうに前進しております。このお二人の日誌からも分かるように、不安症状を常に否定しつづけていた心理的態度が不安に対して反対しない、相手にしない心理的平面に急転回しているのであります。
 
 この柿原、黒川の御両人も共に、最後の限界状況で、森田先生の所に身を投げこんできております。このようなお二人の心理的態度は自分の意志の力でつくるものではなくて、自分を現在「今」になげこんでなりきったとき、展開した心理的態度であります。このことについては後にくわしくふれたいと思います。
                                                       (中略)

 さて以上、身近な例を申し述べました。このように神経質の不安症状はいろいろあるとしましても、はじめに結論を述べましたように人間そのものが、今、現在になりきる心理的態度、即ち三昧の境地−没我の心理的態度を通って内発的に、その不安に反対しない、不安を肯定する心の平面に変化することを示しております。そして自分の意志の力でその心の態度はつくることはできないのでございます。
 森田の入院療法はまさにこの「今になりきる」ことを徹底して体験せしめ心理的転回を現成させ今を肯定する人間に成長せしめようとする一つの行、今の言葉で言えば一つのセッティングと考えるものでございます。また、この不安に反対しない態度というものは、その人間がみずから経験的に知りわけることで、これを言葉のみでは、遂につたえることのできないものと思うのでございます。

 そして神経質を超える第一歩はこの不安のあることに反対しない心理的態度になることであります。このとき、われわれの心は自由の第一歩に入るのであります。そしてみずからの欲望に前進する態度が発現してくるのであります。この発現してくる前進する態度が生の欲望なのであります。この生の欲望はかくれている場合が多いのであります。神経質の医学的療法はこの心理的態度に到着するところまでと思うものでございます。

 過去の長年月の悪戦苦闘を通って限界状況におちいった人々の中には今申し上げました例のように急速にこの心理的態度に到着する人がありますが、大多数の人達は相当な月日を経て徐々に展開するものと思うのでございます。  
 そして絶対臥祷療法も不問療法もこの限界状態に追いつめる一つの面をもっていると考えてもよいものと思うものです。
 さらにわかり易くするために入院治療を行なわない場合は、神経質の人々はどうすればよいか。それは不安症状はどうにもならぬから、これとことさらに戦うことを止めて、自分の不安症状に耐えながら、それはそれでよいから一歩でも半歩でも自分の欲望の方向に歩むことを始めることにあるのであります。そのとき、年月はかかるとしましても、その不安症状に反対しない態度が徐々に展開してきて、とにかく不安はあっても仕事なり勉強なりができていく可能性の増した態度になっていくのであります。

 次に不安に反対しない態度に到着した後、神経質人の心は、それのみをもってとどまるものではなく、さらに進展していくものが多いのでございます。神経質人は前に述べました通り、年月はかかるとしても、不安が自然に役立っているというところに遂に達していくものでございます。この心理的態度は絶対肯定、自己に主体性の確立した、不安のあったことさえ心にとどまらない流動する真の達人の態度といってもよいものと考えるのでございます。霜山徳爾教授は「神経症の患者が症状の消失することをもって満足せず真に宗教的な永遠なるものに向ってまなざしを開く」という意味のことを書いておられますが、われわれはことさらに宗教的「信」の態度を求めているものではございません。

 しかし神経質を森田学的に超えた人達は、中国の老子の考え方や禅の祖師達や親鸞の言っていることがぴたりと共感されるものがあるのは、同じ次元に立つ、あるいは極めて近い次元に立つ心理的肯定の態度であるからであろうと考えても大きな誤りではないと思うものです。

 所謂、宗教的言辞を用いることはわれわれは全く好むものではございません。また何もわれわれの到着した心理的態度を所謂、宗教的に理解しようとは全く考えてもおりません。

 しかしいま述べましたように中国の老子の「無為」といわれる心理的態度、禅の「無」とか「怒」とかいわれる心理的態度、あるいは親鸞の「自然法爾」とか、晩年に言っています、「光雲無礙虚空の如し、雲霧の下闇なきが如し」などの心理的態度は、心理学的に考えましても神経質人の「不安が自然に役立つご立場になっている」ということに徹した絶対肯定の態度に極めて近いもの、あるいはその心理的態度のみをとり出して考えますれば、ほとんど同じものと考えましても、それほどの飛躍ではないであろうと考えるものでございます。

 私は深層心理学のユングが東洋の宗教といわれるものの大部分は心理学だといったという言葉に大きな興味をもつものでございます。神経質人の心の徹底的転回は全くこの人生の公案をといて自己に主体性の確立した自由に流動する心理的態度になり得たものと考えるのでございます。

 私はよく私のところの入院生達に、君達の神経質を越えた心は、その悩みをもたなかった人達の三十年の坐禅修行に相当すると言っているのでございます。神経質で悪戦苦闘した人達は自己を大切にし、年月はかかるとしましても自己に主体性をもった自由な心理的態度に展開され、われわれの後をつぐ多数の人達が輩出し、社会に大きく貢献されることを祈ってやまないものでございます。また努力によっては、必ずそれの達せられるものであると大きな期待をもつものでございます。多数の先輩の先生方、多数の神経質の方々の御静聴を心から感謝いたすものでございます。

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by mental-online99 | 2014-08-11 23:12 | 不安障害・パニック障害 | Comments(0)


 「ブログのタイトル、守破離(しゅはり)とはなんの意味ですか?」と、ご質問をいただくので、少々ご説明しておきます。少し堅苦しいお話に聞こえるかもしれませんが、

 茶道の千利休。その利休百首に、
 「規矩(きく)作法 守り尽くして破るとも 離るるとても本(もと)を忘るな」、と言う歌があります。
規則を破っても、規則を離れても、本(もと)を忘れてはならないと云う教えです。

 守破離とは、師匠から学んで離れていくまでの過程を表したものです。これは何事も基本(守)が出来ていなければ、応用(破)が利かない。基本と応用が出来るようになって初めて自分らしい振る舞いやもてなし”自分らしさ”(離)というものが表れてくる、と云うものです。

 改めてこのブログのタイトルでもある「守破離(しゅはり)」とは、
今では仕事や種々その道を極める為の成長段階を示した言葉で、道を極める成長段階は、文字通り「守」・「破」・「離」の三つの段階に分けられ表現されています。
 

「守」

 この段階は、ひたすら師の教えを守っていきます。多くの話を聞き、師の行動を見習って、師の行動を自分のものへとします。全てを習得できたと感じるまで、師の指導を繰り返します。そのうち師から「疑問を感じたら、私に頼ることなく自分自身で解決するんだ」などと言われるようになります。こうなると守の段階は終了、次の段階へと進む事になります。

 

「破」

 この段階は言葉通り、既存の概念を破る事です。ただマニュアル通りに師の教えを守るだけではなく独自の工夫を重ね、師の教えにはなかった方法などを試していきます。意識的に師の教えを崩し、次第に発展し独自の方法を築き上げていく段階になります。

 

「離」

 この段階まで達すると、師のもとを離れていきます。離はいわば理想の段階ですが、その「道」を学ぶ者ならば、離の段階に入っていかねばならないのです。しかし、ここで初心を忘れてはならないのが、「基本」であります。基本、型は大切にしながらも常に革新することです。仕事においては独立や開業などにも例えられることもあります。

 茶道でも仕事でも、カウンセリングでも、「すぐに学ばしてほしい。」、と人から言われる場合があります。
しかし、「すぐに」学んだものは残念ながら「すぐに」忘れていくものです。守破離で云えば、守、つまり基本はしっかり時間をかけて学んでこそ応用が可能となります。したがって、即を求めること、実はこれがもっとも注意しなくてはなりません。これは、神経質傾向の人たちには特に云えること。完全主義者ゆえ、早く、早く、となってしまう。しかし、その結果はと云えば、先述の通りです。

 治療でも同じことが云えると思います。
誤解を恐れず申せば、病気の基本こそはしっかりと聞き学び、その後はすべて医師任せにはしないこと。治すことはもちろん必要なのですが、治すことに自らがとらわれて本来あるべき自分や家族、時間を見失ってはいけません。

 病気と戦った人は孤独をしっています。
さらにその孤独の中で自分と戦った人は、いつの日か自分の言葉で、自分の思いを語り、同じ境遇の人や家族を笑顔にすることもできます。

 今の自分をあるがままに認め、「守」から「破」・「離」へ、そしていつしかあるべき自分を発見していただきたいと思います。


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by mental-online99 | 2014-08-07 17:00 | 不安障害・パニック障害 | Comments(0)
心を傷つけないように、失敗しないように、こころを病まないように生きるのは難しい。いや、無理なのかもしれない。むしろ、そうなることを織り込み、なった時どうやって起き上がるか重要になる。と云うのも、傷つくことを恐れ回避して生き抜くことは、その人のさまざまな脆弱性を強めることにもつながると感じる。
 私たちはどうあれ、社会といった「広場」に踏み込まなくてはならない。広場から大きく離れた室内で声を発するのではなく、実際にもまれ悩みそして起き上がる術を学んでいかなくてはならないと思うのであります。

 「出る杭は打たれる。」
 夢や目標を抱いて大きな仕事をすればするほど、大きな失敗もする。その時には周囲から大きく叩きこまれることもある。しかしそれらを恐れていては、その人にとって一歩も夢や目標に踏み込めない人生となる。
 以前にも書きましたが、私自身もこれまで何度も叩かれた経験があります。本当に力のある人たちは権力をもって杭を打ってきますが、力のない人はネット掲示板やSNSなどで心理的に叩いてきます。あらぬ事を書かれては誤解をまねき社会的評価も下がることもあります。

 また、学校生活では横一列「平等」と学んでいたが、社会へ出れば毎日が食うか食われるかの戦場であります。倍返しではないですが、ひとたび社会と云う戦場へで出ればたちまち斬り合いをしなければならない。したがってある意味、完璧を目指すのとは逆に、恥をかいて傷つくことの理解とこころの受け皿を深く大きくつくっておきたいところです。

 この「恥」。
 日本人にとって最も嫌な瞬間でもある。社会へでて人前での恥、世間体での恥、、。恥にもいろいろありますが、ある家庭では世間体を理由に幼少の頃から失敗や恥を欠かせないよう教育されてきた人もいる。
 
 一方、神経症の対人恐怖、パニック障がい、不安神経症などは、この「恥」が症状の曲者でもある。人前でみっともないところを見せたくない、むしろ良いように思われたい、新幹線に乗れば止めてしまうような大騒ぎになるのではないか、美容室ではジッとして気をまぎらわせる事がないため精神が混乱してみっともない姿をさらけだすのではないか、、、などなど。これら突き止めれば、「恥」も症状が発生する理由の一つなのですね。

 不安そのものが怖いのではない。「恥」が怖いのです。傷つくのが嫌なのです。
つまるところ、恥や傷つくことを避けて生きている自分がまさにいるのであれば、今一度その自分と冷静に向き合わなくてはなりません。




 最後に、この度 笹井芳樹 発生・再生科学総合研究センター副センター長の訃報、に接し
 謹んで哀悼の念をこめ ご冥福を心からお祈り申し上げます。
                    
 
 ただ批判するだけの人に価値はない ー 強い人のつまずきを指摘し、やり手ならもっとうまくできたはずだとあげつらうだけの人には。

 称賛に値するのは、実際に競技場に立ち、嘆と汗と血にまみれながらも勇敢に戦う人だ。あるときは間違いをおかし、あと一歩というところで届かないことが何度もあるかもしれない。

 何をするにも間違いや欠点はつきまとう。それでもなお、ことを成し遂げるためにもがき苦しみ、情熱を燃やし、カを尽くし、大義のために身を粉にして励む人こそ偉大なのだ。
 
 順風ならば最後には勝利に輝くだろうし、最悪の場合、失敗に終わるかもしれない。だが彼らは、少なくとも果敢なる挑戦をしたのである。 「果敢なる挑戦より」

 
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by mental-online99 | 2014-08-05 21:55 | 不安障害・パニック障害 | Comments(0)


 今朝もすでに温度計は30℃を超えています。くれぐれも熱中症にはお気を付けください。
さて、昨日も書きましたが、「不安神経症」についてお問い合わせが多いので何故か、とYAHOOで検索をすると、2位になっておりました。なるほど、と思い、念のため神経症のこころの状態を記述しておきたいと思います。

 昭和2年当時、慈恵医大初代精神科名誉教授 「森田正馬」博士は以下のように説明しているのでご参考いただきたい。なお、昭和初期の表現でありますので、わかりにくい部分は御容赦ください。

 (以下、神経質の本態と療法より)
 疾病または苦悩そのものに、直接にとらわれて、これを現在の事実だと信じこみ、直接にこれを恐怖、苦悩するものであるが、直接は死とか疾病に関係しないで、本人が内省によって、自己を観察、批判して、普通人にも有り得る自己の感覚、観念を、病的異常と誤って考え、いたずらにこれを排除しようと努力するために、ますます精神の葛藤、すなわち煩悶を起こし、苦悩を起すようになることがある。

 また神経質のほとんどすべての患者は、「他人から見れば、病人らしくも何ともなくて、自分ひとりたえ難い苦痛に悩まされる」と訴えるのが特徴であるが、これは何より症状が単に主観的であって、具体的のものでないという証拠である。またある患者は、「自分のように重い苦悩があるものは、けっして他に類がないだろう」などということがある。私はこれに対して、「こんな苦悩を持っているのは、この世でもっとも不幸、悲惨なものである。けれども、もし普通の人が、これだけの苦悩があれば、ほとんど立っていることも、ものをいうこともできないだろう。それにもかかわらず、自分が人なみに応対もし、労働もできるということは、この世で最大の勇者でなければならない。すなわち最大の不幸者は、同時に最大の勇者である。みずから不幸をかこつ心をもって、そのまま勇気の自信と歓喜との心に置きかえることができるということは、その間に、ほんのわずかな差があるだけだ」などといったこともある。

 ※森田博士は、神経症に苦悩するひとたちを「勇者」であると語っている。
 ※さらに以下、森田博士は、神経症の心の「からくり」を精神交互作用と表現し、説明されている。

 精神交互作用とは何か
神経質において精神交互作用というのは、ある感覚に対して、注意を集中すれば、その感覚は鋭敏となり、この感覚鋭敏は、さらにますます注意をその方に固着させ、この感覚と注意とがあいまって交互に作用して、その感覚をますます強大にするという精神過程に対して名づけたものである。

 しかし、これをはじめて症状が出はじめたときにさかのぼってよく調べれば、すべて本来健康者でも平素体験する普通の感覚や感想で過労後や、寝過ごした時の頭重感、飽食した時の胃部不快感、恋愛時の赤面、急病で死んだ人を見た時の恐怖にともなう悪寒、心悸亢進(※心臓のドキドキ感)や、かけ足をした時にわき腹が引きつれることなど、だれもがよく経験することなのである。
 ところが神経質患者は、これを病的異常と考え、これに対する恐怖と予期感情と起こして精神交互作用により、その感覚をますます増悪し、これに執着していつまでも長く症状を固定するようになるのである。

 たとえば、偶然心臓病で苦悶しながら死んだ人の様子を見たら、だれも必ず大きな恐怖感動に打たれるだろう。そして自分もこんなことになりはしないかと、絶えず心配不安の種になって、心悸亢進発作(※不安発作、パニック発作)を起こすようになることがある。またあるいは、その後、日常生活に追われ、いつかそのことを忘れていたものが、夜中に夢を見て驚くとか、心配ごとがあったとか、偶然の機会に、心臓の鼓動を感ずるとともに、たちまち、これと前の心臓病患者のことが結びついて、精神交互作用によって、心悸亢進発作を起こすようになることがある。

 昔から「感情は心臓にある」というように、すべて感動は、常に胸内に不快を感じ、心悸亢進を起こすことが生理的の現象である。だから、突然に心悸亢進を起こしたとき、本人がその前後の自己の精神的過程を意識しようとしまいと、それに関係なく患者はたちまち恐怖に支配され、恐怖は当然心悸亢進を起こし、注意がその方に集中するほど、ますます不安を感じ、注意と不安とが交互に作用して、心悸亢進はいよいよたかまる。その上患者が、自分で脈をはかるとか、細かく自己観察をするにしたがって、ますます脈拍の数は増加し、全身に脈の鼓動を感ずるようになる。さらにこの発作がしばしば反復するにしたがって、患者は日常その恐怖に支配され、注意は常にその方にひかれ、ますます発作の頻度や強さが増すようになるのである。

 (以上、神経質の本態と療法より抜粋)

 では、始業時間となりますので、、。
by mental-online99 | 2014-08-03 08:55 | 不安障害・パニック障害 | Comments(0)

 不安神経症について、全国から問い合わせが多いので簡単に思うところ書いておきたい。


 「りんごを食べたことのない人に、りんごの味は説明できない」

 不安症状も同じことが云えます。症状をもった皆さまの中にも、自分はこれだけ辛いのだと、ついつい同情を求めた経験はないでしょうか。特にご家族に対して、、。しかし、これも限度を超えしまうと、自分はもとより家庭内において支障が生じてきます。

 と云いますのも、特に神経症、パニック障がいや鬱の場合、自分以上の苦しみはないと皆思っておられます。それほど、この症状に対する執着心は大きい。従って、同情を求めても、あなたが思う以上の”言葉や行動”は返ってはきません。求めれば求めるほど逆に、「自分はこれほど辛いのに・・」、とますます精神的な孤立、悪循環になっていきます。

 また、誤解を恐れず申せば神経症はえてして家族との共依存、過干渉が多い。
例を挙げれば、外来受診時。本人が症状等を発言する場面においても、親御様が本人の発言に助け船をだし、そのまま親御様が終始だらだらと話してしまうことも多い。
 一方で、外来に来たのに本人が一方的に時間いっぱい話して帰る人も多い。担当医師たちが助言する暇もないくらいに。しかし本人たちは、担当医師に見落としが無いようにと、あらかじめメモを用意し丁寧に症状を話しているうちに時間が来るのであります。それくらいに神経質は用心深く、慎重であります。でも考えたいのは、医師達が助言する時間も差し上げるくらいの心の余裕がほしいところ。助言され「こんな考え方もあるのか、、」となるよう心がけたい。
 
 さて、神経症は神経質ならではの心の葛藤(とらわれ)、こころの習慣である。
不安とは「対象のない不安」として云われているようですが、私はそうは思わない。また、本当の自分を知らないことも問題であろう。自分のどこが脆弱であるのか、どこがむしろ強いのか、そして何におびえ不安なのか。己にじっくり向かい合い、掘り下げて掘り下げて考えていけばどこに行き着くのかが皆さんにはきっと理解できるはずです。

 またああなったらどうしようの先にあるのは何か。みっともない姿を見せるのが恐怖なのか、守るべきものを無くす恐怖なのか、収入がなくなる恐怖なのか、死の恐怖なのか、、、挙げればキリがないですが、ぜひ自分に改めて向かい合ってその答えを見つけていただきたい。

 そもそも先述のように神経症になる人たちは用心深く、慎重であります。
仕事をさせれば真面目に面倒見も良い、仕事も出来るし私の周りにも大きく出世された人も多い。しかし、一方でアクセルを踏みすぎて心のオーバーヒートを起こすこともある。几帳面が裏目にでて、あーでもない、こーでもない、とこんがらがってしまう。
 するとこれまで仕事や希望に向いていた心のエネルギーがたちまち自分の体の違和感へ一気に向いてしまう。するとこれは彼らからすると一大事である。一般の人ならこんなこともあるさ、で済むことが神経質はそうはいかない。ここから始まってこんどは病院めぐりが始まる。変な精神病になったのではないか、心臓がおかしいのではないか、悪性腫瘍があるのではないか、などこれも挙げればキリがない。

 ここまでくると今度は、布団で寝込んでしまう人も多い。まさしく「とわわれの身」であります。
しかし、神経症の人たちはそもそも精神病ではないので、何日も寝込めば暇をもてあまして過ごすことに苦痛を覚えることになる。だが、注意したいのは、「暇は無味無臭の劇薬」である、と云う事。
 暇になればなるほど、有らぬことをぐじぐじと考えだす。神経症解決の近道は、常に何かをしている生活である。

 私は問う。
「なにが不安か?」、するとある人が答える、「将来が不安です」、と。

「先々の不安は先々の不安として、今目の前の必要なことを丁寧にやっていくことが大切。今の取り組みが先々の自分をつくってくれます」

 今日はこのへんで。

 
 
 
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◆以下URLにて、皆さまのご感想・ご意見・ご要望などをお待ちしております。
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by mental-online99 | 2014-08-02 22:24 | 不安障害・パニック障害 | Comments(0)

メンタルヘルスONLINE スタッフの徒然日記。不安障害・鬱、アルコール依存症などを語ります。


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